剣の安置されている場を離れた後も、ボロミアは与えられた部屋には戻らなかった。
笑われたことに腹が立った。
子供じみたことをしたと思う。彼らの国ですらすでに埋もれたかつての栄光の姿を目にして、思わずはしゃいでしまった自覚はあった。それでもあの薄闇で、その感動に浸っていたかった。彼を現実に引き戻したのは、無遠慮に突き刺さる視線。その時点では彼の方に否はなかったのだ。だが、こともあろうに己の対応は最悪だった。落ちた剣を拾っては、ただの折れた剣だと放り出したことが無駄になる。一時は本気になっている自分を見られて、カッとなった結果が・・・この通りだ。
剣を落としたまま去った自分を、あの男はどう思っただろう。何にも増して、振り返りざまに見た飲み込まれそうな深い瞳が、脳裏をよぎる。
ひとりきり部屋にこもって苛立ちを募らせるより、穏やかな景色を眺めている方がよかろうと思ったが、なかなか心は静まりそうになかった。
夜の闇に覆われながら、どこからか零れだす淡い光があたりを照らしていた。ここは決して停滞することがない。常に清いものが流れ、生き物の気配がさざめいている。
テラスの手摺の石の冷たさが、じんわりと伝わってくる。その時になって初めて、彼は部屋にグローブを置いてきたことに気付いた。同時に、あの剣で指先を傷付けたことも。
顔を上げた拍子に、すぐそこまで人が来ているのに気付いた。建物の奥であれば響きあう足音も気配も感じただろうが、外に面した渡り廊下ではそれらも逃れ水音に消えてしまう。
男も迷ったように立ち止まった。だが、ボロミアが立ち去ろうと背を向けたとき、声がその足を止めさせた。
「あまりうろつかぬ方がよかろう」
「ただ部屋に閉じこもっているのが惜しいところだ、ここは」
玻璃が砕けるように流れ落ちる滝を見ながら、ボロミアは言い訳をした。ひとかけらの詞の如く、流れるように発せられたその声は、まるでエルフの言葉であるかのように、彼に言いようのない戸惑いをもたらしたのだった。
「無論、気に入ってもらえるのは嬉しいが」
声が答えた。その喉の持ち主をもう一度見ようと、ボロミアは向き直る。
「余所者が出歩くのは困るか」
「そうじゃない。エルフには人間をよく思わない者もいるから」
「・・・あなたも?」
「私?・・・いや、私も君と同じ人間だ」
これにはボロミアも少し驚いた。華奢でしなやかな印象を受けたが、確かにエルフは黒い服を好んでは着まい。だが、その仕立てはエルフの手に寄るものだとすぐに分かる。この裂け谷でエルフの装いをした人間に出会うとは思わなかったのだ。
「ではなおさら、何故悪し様に言われねばならん」
憮然として、ボロミアは彼を睨みつける。
「彼らはイシルドゥアの犯した罪を許してはいない」
「イシルドゥアは英雄だ。彼のおかげで、中つ国は救われたのだぞ」
意味がよくわからなかったが、むきになってすかさず言い返したボロミアに、彼は微笑した。
「ナルシルの剣は現実としてここにある。決して伝説は神話ではない」
「もちろんだ」
誇らしげに胸を張ると、男は軽く頭を下げた。
「先ほどはすまなかった。驚かせるつもりはなかった」
「いや・・・軽々しく触れていいものでなかったのだろうな」
申し訳なさそうに言ったボロミアに、男はさらりと返した。
「あの剣で戦ってみたいだろう」
「馬鹿にしているのか」
さすがにむっとして詰め寄ったが、男は平然としている。
「ゴンドールの人間なら・・・いや、武人ならば誰もが思うことだろう」
「あれを振るえるのは、ゴンドールの王だけだ。・・・そして王は失われた。あの剣も歴史の小道具に過ぎない」
くすりと笑われて逆上し、掴みかかったボロミアを、男はすいと止めた。
「こんなところで人間同士、諍いをするのもよくない」
胸倉をつかもうとした手を離すと突然指先に口を寄せられて、ボロミアは驚いた。その行動が、先ほどの傷を目ざとく見つけたからだと気付いたのは、その舌が柔らかく指にまとわりついてから、そっと離れた時だった。
どくんと身体中の血が騒ぐのを感じた。
薄く開かれた唇。そこから覗く濡れた舌。心持ち見上げている瞳。
視線がその瞳にくぎ付けになった。吸い込まれるような深い深い瞳。引き寄せられるまま、その欲望のまま、ボロミアは口づけた。
唇を離してからも名残惜しそうに見つめる彼に、視線を返しながら、男は何も言わない。
しばしの沈黙の後、ボロミアは掠れた声で言った。
「長旅で少々おかしくなっているようだ。このような諍いならば、お相手いただきたい」
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