彼らがロリアンに着いて、1日目。見知らぬ、しかもエルフの治める地への滞在という緊張感が身を堅くしていた。身体も心も疲れ果てていたから、そんなことは関係なく眠ることはできたが、森の奥方の誘惑の囁きは、一部の者以外の心を強張らせた。
 2日目の朝が来ると、少しは周囲を窺えるようになった。様子がわかってくるにつれて、ガンダルフを失った悲しみが実感を持って心に染み、皆で彼を悼みあった。
 3日目にはロリアンの美しさを楽しむゆとりができ、4日目には旅の重荷を忘れてホビットたちがはしゃぐ姿も見られた。



 5日目に、デネソールの息子ボロミアはひとりロリアンの青白い木立の中を彷徨い歩いていた。仲間たちが束の間の休息を楽しんでいる間にも、彼はあの誘惑の声に囚われ続けていた。アラゴルンに打ち明けたことで一時は逃れられたと思われたその考えは、言葉にしてしまったことでかえって具体化し、その心を蝕み始めていた。ピピンから散策に誘われたが、ガラドリエルの蒼い瞳と果てしない望みが常に彼の脳裏をちらついて、とても彼らと笑う気にはなれない。もう一度かの奥方に目通りがかなわないかとあちこちを行ったり来たりしている。
 ほんの4日前、アラゴルンと語らった辺りに自然に足が向き、銀色の木々を見回したときだった。
「ボロミア」
頭上から呼ぶ声を聞き取って、彼は見上げていた顔を廻らせる。だが、その方向には誰の姿もなく、戸惑っていると、梯子を伝ってアラゴルンがするすると降りてきた。
「誰にも見られていないようだな」
辺りを見回して悪戯っぽい笑みを見せた彼は、
「ぜひとも貴殿を招待したい」
と優雅な仕草で梯子へ促した。



 そこは小さなフレトだった。ニムロデルのものに似て飾り気も広さもなく、階段ではなく梯子で昇り降りする。ガラドリエルの好意で用意されたらしい。一行を率いるアラゴルンには、一人になる時間も必要だろうとの気遣いであった。彼はエルフの仲間であり、奥方の孫娘の許嫁でもある。なおさら奥方は彼に甘い。
「私は以前この地に逗留したことがある。すこしも変わらない。留まっているものが異なるだけで」
言ってアラゴルンは遠くに視線と想いを馳せた。ボロミアは『留まっているもの』のことが気になったが、それには触れず尋ねた。
「何故俺をここに?」
もしもここが思い出の地であるなら、なおさらその記憶に他人を踏み込ませたくはないだろう。この幾日間、アラゴルンはまったくこのフレトに通っていることを気付かせなかった。ひとりだけ個室を与えられていることを隠したかったのも事実だろう。しかし、この地を見るアラゴルンの瞳は、何かもっと遠いものを見ていた。そして、活き活きとした色がその顔に見られ、苦労の影もほんの一時ではあるが薄れている感じだ。
 そんなアラゴルンの姿と、自らがあまりに違い過ぎて、恐れは増す。それを気付いているのか、アラゴルンの様子はやさしい。
Onuvan i-estel.
歌うような甘やかな声が囁いた。ボロミアは首を傾げながら問うた。
「この間もそんなことを言っていたな。一体どういう意味があるのだ?」
しかしアラゴルンは微笑んだだけで答えない。そのままゆっくりと身体を傾げた。その肩をやさしく受け止めながら、ボロミアは心の奥底の不安を振り払った。じんわりと伝わる体温を感じ、そしてまた己の熱を移すかのように強く引き寄せる。


 この土地に留まれば、こうして生温い幸せの中に浸れるのかもしれない。絶望から逃れることができる。逃れることはできる。
 ・・・だが。

 だが、望みを囁く声は、ボロミアの耳に残って離れない。
「まだ望みはある・・・」
一体どこに?
どんな望みがあると?





 白い塔を夢見ながら、浅く苦しい眠りに落ちる。
 アラゴルンの青灰色の瞳が、見つめているのにも気付かないまま。



水月綾祢 ■シリーズで続きものだと、どうしても矛盾がたくさん出てきてしまいます(汗)同じことを前提としているけれども一つずつ起こりうる微妙に異なった側面に過ぎないと考えてください。
■映画と原作で食い違っている部分、どちらを優先するかという問題があるのですが、基本的に映画を前提にして、映画から入手できない情報は追補編を参考にしています。話し方も違うので、場合に応じて都合のいい方を選んでいる感じ。
■この話はロリアンを出た後の話の前置きのような感じなので、深い意味はないですな(苦笑)


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