光を放つ石が、しゃらりと喉元で涼やかな音を立てた。
指先でそれに触れて、アラゴルンは小さく吐息をこぼした。細くさらさらと流れ出す輝きのように、その溜め息も、周囲の空気をそっと震わせる。鎖を留めた指が、やさしく肩を撫でて離れていった。
「アルウェン・・・」
その指を追うようにアラゴルンは手を伸ばしたが、空を掴んだだけでそれはそっと下ろされた。
「星の輝きは、天空の何処においても同じものです。日が沈めば強く、日が昇れば薄れてしまうけれども」
ゆっくりと寝椅子に身を横たえて、天井の細工の隙から空を見上げる。そうすれば、かのルシアンの如く美しい彼女の髪と横顔が光を受けているのが見える。
微かに風にそよぐ紗。宙に浮いているような空にひらかれたそのテラスは、常にほの灯りに包まれていて、アラゴルンの数少ない寛ぎの場のひとつだった。
「しかし星は、飾られる空を選ぶ・・・自らが望む空に輝くことを」
振り向いたアルウェンは、すっと傍らに膝をついて、その頬に唇を寄せた。
「思い悩まないで、エステル」
輝き溢れるような若さと自信の裏側に、かつて彼は不安を持ちつづけていた。広く世を見て、時がその顔に経験の深みを加えていった今でも、彼は常に、戸惑いの中にいる。
「星は輝いている。だが、私の目には眩く、あるいは闇に閉ざされて、見ることができない」
アラゴルンの瞳には、彼の叡智を知らせる深い蒼色の奥に、苦しみの陰が潜んでいた。アルウェンはその瞳を覗き込みながら、ひとつひとつ丁寧に告げた。
「あなたの道の行く先に、確かに」
瞳を閉じてしまったアラゴルンの手を強く握り、アルウェンはそっと首飾りに触れさせる。
「これがその証し。・・・お願い。どうか望みを託して」
居た堪れない思い。
ふたつの思いが、近付きつつあった。
「最後の憩い」館の奥。木々と大理石の壁に囲まれた秘密の水辺。
裂け谷の建物はたいていの窓から流れを見ることができる。しかしその流れだけは、どこからも目にすることのできない、秘められた場所だった。望む者はそこで身を清める。
ゴンドールの代表として裂け谷に滞在するボロミアも、執政家の子息らしく身だしなみに気を遣う男であったから、よくそこを利用していた。ボロミアがいる間はエルフの影を見ることもなく、彼は他者の目がない時間を満喫することができた。
しかし、今日は裸身が晒されることになった。乱雑に荷を下ろしたのは、斥候帰りらしいアラゴルンだった。服は泥にまみれて元の色がわからず、髪にも頬にも乾いた土が張り付いている。
「あんたが上がるのを待とうか?」
投げかけられた声に首を振って否定の意志を示すと、ボロミアは少し隅に寄った。
「いいや、構わん」
アラゴルンは早速服ごとそこに身を沈めると、擦り汚れを洗い落とす。そしてひとつずつ、衣を脱ぎ捨てていく。それをすっかり石台に広げてしまうと、野伏としての険しい表情が洗い流されて、裂け谷のエステルが姿を見せる。
水場で遊ぶ子供のように、彼は潜るように頭まで水に沈めて、勢いよくまた顔を出す。ボロミアはついその様子をじっと眺めてしまった。無造作に首を振ると髪から雫が飛び散り、首筋に張り付いた波打つ髪が水妖のような艶かしさを醸し出している。いや、ボロミアは水妖に出会ったことはなかったが、もし存在するのであればきっとこのようなものに違いないと思ったのだった。
水面の一点を見つめるうち、ぼんやりしていたらしい。突然足を引かれて、ボロミアは大げさに転んだ。いつの間にかアラゴルンが身体を潜ませたまま近付いていた。ボロミアはこの時、己の胸ほどの深さでも溺れることができると実感した。やっとのことで体勢を正すと、目の前にアラゴルンの笑顔があって、ボロミアは危うくもう一度水を飲むことになりそうだった。これまで見たどの表情とも違う、まるで本当に子供のような笑顔だった。彼の怒りを買った、口元を歪ませるだけの人を食った笑いではなくて。歯を覗かせ、目元には皺ができている。とっさに文句を言おうと開いた口からは何も言葉はでなかった。ただ、そのまま、アラゴルンから見ればまったく滑稽な様子で、呆然とその笑顔を見ていた。
アラゴルンは突然真顔になって、それから濡れた手で髪をかきあげた。
「どうした?」
首を傾げるようにして問う彼に、ボロミアは急激にあらゆる衝動が巻き起こるのを感じた。苛立ちに似たその感情は、先日の素直ではない態度と相まって、ボロミアを嵐へと誘い込んだ。足に触れられた感触がよみがえり、ボロミアには留める術がなかった。こうなるともうアラゴルンを巻き込むしかない。
「誘いに来たのだと思うことにするが、よろしいか?」
それを聞いて、アラゴルンは肯定か否定か判断できない息を軽くもらし、肩をすくめた。
「思うのはあんたの勝手だ」
水をかいて一歩進む。髪の先から零れ落ちた雫が、水面で弾かれてボロミアの腕に触れるほど、ふたりの距離は近くなった。
「私はあんたに誘われたのだと思うことにするよ」
水面で揺れる光が、互いの肌に映る。揺れ動く気持ちを見透かすように見つめあった後は、口付けを。三度繰り返すうちに、雫はボロミアの肩に落ちるようになっていた。流れに冷やされた互いの身体の奥から湧き上がる熱を移し合うように、強く抱き締める。ボロミアは水をかき分けるように、忙しなくアラゴルンの肌を撫で、快楽の欠片を探そうと必死になった。息苦しくなって唇を離すと、今度は身を屈めて水面に現れては隠れる突起を唇で挟み込む。腕も同時に下ろし、その背を強く引き寄せる。無防備に胸を晒したアラゴルンは、首を反らしてその愛撫に応えた。
「アラゴルン・・・」
強く訴えるようにボロミアは名前を呼ぶ。呼ばれなくてもアラゴルンは分かっているはずだった。下肢に押し付けられたその熱さで、十分に分かっていた。
アラゴルンは熱い吐息をひとつ大きく吐き出すと、無言でボロミアの手を引く。浅瀬にある、張り出した大きな平たい石。苔色の衣が干してあるそこに、アラゴルンはそっと身を横たえた。
「こ、こんなところで大丈夫なのか・・・?」
不安げに問うと、飄々と答えが返る。
「心配するな。エルフならここまで来る前に気配を察して引き返す。見られることはあるまい」
知られないとは言っていないことに、ボロミアは気付かなかった。
燃え盛る勢いのまま、彼は王の血をひく者を思うさま蹂躙した。
全てが済んでもう一度身を清めてしまうと、アラゴルンは全裸のまま濡らさず置いてあった荷の中からパイプを探り出して、さっそく火を点けた。その様子を眺めながら、ボロミアは乾いた布で水を拭い、下履きを身につける。上着を羽織ってしまうと、ただ眺めているのも退屈で、ぼんやりとくだらないことを考える。
「裂け谷は、あなたを人質に捕っていたようにも思えるな」
唐突にそう口にしたボロミアをアラゴルンはきつく睨みつけた。
「言葉に気をつけろ、ボロミア。イシルドゥアの世継ぎが裂け谷に保護されていなければ、私も存在しないのだ。その恩を忘れてはならぬ」
アラゴルンが苛立ちをこめてパイプの先を唇に押しつける様を見ながら、ボロミアは笑った。
「そう怒るな。冗談じゃないか。しかし・・・ゴンドールの使者があなたを迎えに来たと考えれば」
「そして裂け谷に攻め入るのか?やめろ馬鹿馬鹿しい。王とも思っていないくせに」
ばっと立ち上がったアラゴルンは、パイプの始末をしてしまいこんだ。それまで自分が敷いていたびしょぬれの服を着ようとするのを見て、ボロミアは慌ててそれを止める。
「待て、それで戻るつもりか?」
「いけないのか」
「さすがにそれは・・・」
「敷布代わりに使わなければ、もっと乾いていたはずだったんだぞ、ボロミア」
ぐっと言葉につまり、ボロミアは咄嗟に上着を脱いでアラゴルンに着せかけた。
「私は下履きをつけているし、もう一枚上着もある。これを着てお戻りなさい」
紅いその衣は決してアラゴルンに似合うものではなかった。しかし情事の後のその気だるい風情には、たまらなく彼の魅力を惹き立てるものになった。ボロミアは自分で言い出したことに動揺しながら、皮の上着を素肌に着込み、そしてアラゴルンの衣の前を合わせてベルトで留めた。
「早くまともな服を着てもらわねば・・・」
つい口に出してそう呟きながら、今度はボロミアがアラゴルンの手を引いて、屋内へと戻っていった。
「出立の支度が整いました。お別れを」
「別れなど・・・。暗闇が追い払われる日を、待っております」
「アルウェン、Vanimelda・・・。Namarie」
額を押し付けるように告げて、手の中のものを示した。旅支度を済ませたその手のひらに、白く輝く星がひとつ。
「どういうことです?」
「これは・・・私の持つべきものじゃない」
「申し上げたはず。星は自ら持ち主を選ぶのです」
「あなたのものだ」
「いいえ。この地で待たねばならないなら、せめて気持ちだけでも同行したい」
言ったアルウェンの瞳には強い意志が灯っていたが、アラゴルンにはそれを受け止めることはできなかった。
「とてもあなたと共には行かれません」
「アラゴルン・・・」
アルウェンは強くその手を握らせて、頷いた。
「私のことは構いません。そう仰られるのなら、それはお別れのしるしです」
アルウェン。
何も言えない。
貴方は私の全てを受け止めてくれる。
それと同じように、私はこれから、仲間を国を、全てを受け入れていかねばならない。
貴方にその全てを背負わせるわけにいかない。
貴方に望みを託すわけにはいかない。
・・・この先に王座が待っているのだとしたら。
3018年12月25日。
この日の夕暮れ、旅の仲間は裂け谷を発った。
長く短い旅の始まりだった。
水月綾祢 「父と子」第3弾です。父と子なのに、結局お父さんの出番なくてごめんなさい(汗)えーエルロンドとの会話を入れると、どうしても似たようなシーンの連続になってしまうため、カットしました。映画だったらちょっとしたフラッシュバックでいいのになぁ。なんとかボロミアの命日中にUPできそうです。ボロミアの旅立ちということで、私も(明日ですけど)西へ旅立ちます(笑)本当は何があるか分からないので、このシリーズの最後のお話まで書き上げて行きたかったのですが。このまま行くと王の帰還を見ないと書けないとか言い出しそうですな私(言い訳)。TTTのファラミアの印象が強くて、調整しなくてはいけない感じです。
ともかくも、これで「父と子」は終了です。あとは間にいくつか入りますが、次の更新はとにかくこのシリーズの最後、「母の言葉 prophecy」(別題「HANABI」/笑)になる予定。今回の最後の王座云々ってのはそこに続いています。自分なりに、どうしてアラゴルンが苦悩していたのかを勝手に理由付けしていました。でもそれは思い違いで、真相は・・・ってな話。こればかりは書かなきゃ死ねません(笑)なので無事に帰って来たいと思います。