無言のまま首を振った。髪がゆさゆさと揺れる。
その人は背を向けて、こちらに顔を見せてくれない。
「アラゴルン」
「・・・アルウェン。私には、とても負えない」
どうしてあなたは、そんなに堅い口調で話すの?
なぐさめることもできないほどに。
この手は触れていても、その心には届きはしない。
もろいというあなたの心が、どうしてこんなに遠いのでしょうか。
容易く壊せはしない。もろいはずの心が。
◆ ◆ ◆
裂け谷にも夜はやってくる。
夕暮れは陽炎のように橙色をぼんやりと景色に溶かし
光が薄れて緋色に染まるまで、
ゆっくりと、ゆっくりと、そこを通り過ぎてゆく。
あとは神秘の闇が、静かに降りてくるだけ。
この想いを恋と呼んでいいものでしょうか。
あなたを切望するこの想いを。
救いを乞うようなこの想いを。
恋と名付けていいのでしょうか。
気配を全く感じなかったのに、突然声をかけられて、ボロミアは本気で飛び上がった。その派手な動きに羞恥して、発した言葉は刺々しいものになる。
「申し上げたいことはたくさんあるのだが・・・馳夫殿?」
「どれから謝罪すればいいだろうか」
素直な返答に、動揺したのはボロミアの方だった。
「いや、エルロンド殿から伺ったか、私は随分と失礼なことを言った」
歩み寄り、衿もとにすいと指を伸ばす。アラゴルンはその手を避けなかったが、期待したものがそこに見つからず、ボロミアは困惑した。
「会っていないのか?」
「そのことなのだが、ボロミア」
アラゴルンはボロミアの手を握るようにして自分から離す。
「あんたは少し配慮が足りなかった」
「何か言われたか」
苦笑交じりに促したボロミアに、軽い溜め息。
「言われたなんてもんじゃない、非常にやっかいなことになったさ」
やはりただならぬ仲なのかと、ボロミアは焼けつくような感情を覚えた。
「私と、その・・・寝たことがそんなに問題か?」
「まぁ条件が様々重なって、結論的にはそういうことになるな・・・」
アラゴルンは額に手を当て、困ったように続ける。
「あれは私のものではなかった。一時お借りしただけだ。・・・エルロンドはそれを知らなかった。本当の持ち主は、さる高貴な方だ。その方とあんたがどんな関わりがあるのかと、非常に案じていたよ」
「あなただって、案ずるべき高貴な人間だろう」
「確かに私は彼の養い子だし、あんたとの関わりもこころよくは思っていないさ。だが、高貴というのとは違う。・・・あの首飾りは『夕暮れの星』の名を持つもの。彼の娘であるウンドミエルl、すなわち夕星姫の持ち物だ」
「それであんなに動じられたのか」
ボロミアは会議の席で、エルロンドの傍らにいた双つ子の王子を思い出した。彼らの妹君であるアルウェン姫。食事の際にその名だけは耳にしていた。
「初対面のあんたに何か強いられたのじゃないかと疑い、その後顛末が分かってからも、彼女が私にそれを渡したことにショックを受け、私の軽率さにお怒りだった。とても、穏やかな一日ではなかったようだ」
「私も、馳夫の正体にショックを受け、あなたと卿の関わりを疑い、穏やかな気持ちになることなどなかった」
真剣に向き合ったボロミアに、アラゴルンはようやく表情を緩めた。何気ない動作で距離を縮め、肩口に囁きかける。
「今は?・・・今はどんな気持ちだ?」
「い、今も穏やかじゃない」
動じないふりをしても、身体が硬くなったのは明確だった。
「一体何が、あんたの胸を乱す?・・・あるいは何が、安らぎをもたらすのか?」
ひとり言めいた呟きも流石に耳元で発せられれば、嫌でも聴こえてしまう。
「何がと、あなたが尋ねるか」
ボロミアは振り返りざまに腕を出し、アラゴルンをぐいと引き寄せた。肩が予想外に強くぶつかったが、さらに身体を押し付ける。鎖帷子の感触が双方に伝わって、しばし、睨み合いの間が流れた。
「戦を仕掛けているようにしか思えないな」
唇の合間から絞り出すように低く吐き出されたボロミアの言葉に、アラゴルンは思わず口元を緩め、肩を竦めた。
「昨日の今日で?」
「諍いに適度な間を取れと?」
不満そうに問い返してから、ボロミアはアラゴルンの胸倉をつかんで乱暴に近づけ唇を押し付けた。そしてまた一方的に突き放し、何事もなかったかのように、朝方あの星を見つけたベッドサイドへ歩み寄る。
「いくら脅威に晒されるゴンドールの代表といえど、戦に飢えているわけじゃない」
アラゴルンはそれきり背を向けてしまったボロミアをしばらく見つめていたが、気付かず触れていた唇から指先を離すと、言葉もなく立ち去った。
戸口から数歩離れて、アラゴルンは長い間立ち尽くしていた。息を殺して、その部屋の中で、特徴のある重い靴音が落ち着きなく彷徨っているのを聴いていた。若い頃についはしゃいで、我に返ったとき感じた虚しさに似た気まずさが、彼の胸に消えず留まり続けた。ようやく彼が歩き出した時、その気まずさは違和感となって胸の底に落ち、そしてじわじわとその身体を侵食していった。
水月綾祢 「父と子」第2弾です。お父さんの出番なくてごめんなさい(汗)エルロンドがどうしてもつかめなかったので、今回はお休みです(笑)
明日TTTを見てからもう一度頑張ります。そして、例のお返しシーンも入る予定。
アラゴルンの気持ちの変化を相変わらず書き込んでいないのですが、まぁそれは最後にじっくりと(笑)
今回は多くは語るまい・・・。